三日少女

三日坊主を前提に、日々の徒然を発信。今一番興味があることは『投資』。

猫、愛着と執着、その先へ②

こんばんは、yubinekoです。

 

昨日は、私の猫への愛着、そこから見えてきた自分の執着心、について語ろうかと思っていたのですが・・・話が行先の見えない猫話に進んでしまいました。見えてきた執着心は、どこに向かうのか?昨夜の続きから始めたいと思います。

 

猫、愛着と執着、その先へ①の続きより

 

そもそもは、私をワイルドタイプ(男性はワイルドNG)の虜にしてくれた 愛猫『千ちゃん』の話をしたかったのです。彼は条件付きの外猫ではありましたが、最期まで自由を愛する超ワイルド系でした。

 

こうして冷静に彼のことを話せる日が来るとは思っていませんでしたが、こうして書くことも、私が彼を想う行為の一つです。

 

彼が亡くなった時、私はアメリカに行っていました。当時は実家に住んでいましたので、両親に彼のお世話を頼んで、婚約者(現、夫さん)に会うためアメリカへ向かったのです。愛猫、おんとし15歳と高齢猫、体調を崩すことも増えていましたので、こんなこともあるかもしれない・・・覚悟はしていたつもりでしたが、やはり参りました。

 

で、考えました。「彼は私にとって何だったのか、彼の死は私にとって何を意味するのか」。答えは出ません。これまでに、それほど大きな喪失感を感じたことの無かった私、ちょっとしたカオスの中におりました。これからの人生、家族を失う可能性、配偶者に先立たれる可能性、十分あります。私は、その喪失感に耐えられるのだろうか?もう、陰な思考が止まりません。

で、その愛猫を亡くしたカオスの中で、一つはっきりと分かった感覚がありました。それは・・・「楽になった」感覚です。「もう彼のことを心配することはないんだ」「彼を失う不安もなくなったんだ」言葉にすると、こういうことです。

 

で、気付いてしまいました。対象を好きで好きで、愛して愛して、私が持ち続けていたその「愛着」は、同時に「執着」でもあることに。これには驚きました、「愛が執着ってどういうこと?」。でも納得出来る気もしました、「そうかもしれない」。自分でも気づかない内に、グッと握りしめていたコブシから、ファ~っと力が抜けて行くような感覚です。もう握り締めておく必要はない。

 

私は、8年間程ヨガを続けている過程で、瞑想や原始仏教 (日本に伝えられる前の仏教、スリランカやタイに残る) にも興味を持つようになりました。仏教では、無条件に「愛は素晴らしい、良いことだ」とは言いません。むしろ「好きなもの、愛するものが、悩み苦しみを作る」と教えます。

 

沢山、本を読ませていただいた アルボムッレ・スマナサーラ長老のお言葉を引用します。『日本テーラワーダ仏教協会』より

http://www.j-theravada.net/howa/howa121.html

 

「好き」も、「愛」も、世間では楽しいことだと思っている。しかし好きなもの、愛するものが必ず自分から離れていく。それが、得た楽しみとは割に合わないほどの悩みを生み出す。好きなものが目の前にあるときのみ楽しいのです。好きなものが無くなったら、心にある「好き」という感情が、際限なく人を苦しめる。好きなものが無くならなくても、無くなる恐れが恐怖感を生み出す。

 

このことを、そっくりそのまま受け入れて実行することは、かなり難しいです。地球上には、沢山の愛する人、動物、モノ、が溢れていますし、それを仏陀のように全て捨てて、出家することは出来ません。望みませんし。でも、愛猫を亡くしたあの喪失感を、ただ時間とともに忘れ去るのではなく、も一歩でも先に進みたいと思うんです。

 

じゃあ、どうしたらいいのか?

 

まず、「気づくこと」だと思ってます。

 

私はヨガのインストラクターのお仕事をさせてもらう事があるのですが、まず最初にお伝えするのが、「身体が固いとか、柔らかいとかは問題じゃありません。まずは動かしてみて、自分の身体のどこでどう感じるかに気付くこと。心地よい感覚を体感することが大切です。」という内容です。最初から「難しい、出来ない」じゃ、前に進まないんです。

 

今回の、猫、愛着と執着、の件も同じだと思います。自分の感情に気付くこと。意識すること、少しだけ、思考や行動を変えてみること、出来ることをやってみるだけで十分かもしれません。昨今、断捨離とか、瞑想とか、世の中で注目されてますよね。モノとの距離の取り方、自分の思考との距離の取り方に、興味関心を持っている方が増えているのだと思います。私もその一人です。

 

気付けば、愛猫の命日まで後2週間。

千ちゃん、気付かせてくれて、ありがとう。

 

See you next time !!!